昭和44年2月12日 朝の御理解
「出産の時よかりものによかるより、神に心を任せよかれよ」と、出産の時よかりものと言う、こう、よたれるものかね、よたれもたれする、出産の時には何かにこうしがみついてから、出産をする風習のところがあります、そういう意味でしょうね、何かにこうしがみついて、その、そこで力を得ようとするわけですね、だからそういうものに頼るよりも、「神に心任せよかれよ」とこう、ね今日はここの、神に心任せよ、そしてよかれよとこう。
よかれということ、を、よたれもたれをするなということではないようですね、まず神様に心を任せてその後によかれよとこう、ここんところをその、寄りかかる方を先にして、神様を、まあ後にするというようなことではおかげにならん、ね、なるほど勿論ここは、あの出産の時とありますけれども、結局おかげが産みなされてくるという意味で今日は頂きたいと思うですね、おかげというものは、確かに産みなされてくるもんですよね、まいそんためにやはりこの、おかげというものがみな神様の恵まれるもの、いや神様のおかげを頂かなければ出来る事ではないという一つの思い込みがいるですね、前にもありますように、「子を産むはわが力で産むとは思うな」と仰せられる、ね、「みな神の恵むところ」とおっしゃるのですから、ここんところをね、神様のおかげを頂かなければ、出来ることじゃないという、またそれでなからなければ本当のおかげに、おかげの元にはならないと、ね、「懐妊の時腹帯をするより心に真の帯をせよ」とこうおっしゃる、いよいよおかげを受けなければならない、ここにおかげが宿る、ね、おかげを願う、願うところからおかげが宿る、おかげを願う、それを下さろうとする働きが、私共の心の中に宿る、ね、だからそれをです、「真の帯をせよ」とこう、だからここの「真の帯」といい、「親神の恵ところぞ」とこう言う、ここんところをですね、やはり純真心込って、行かなきゃならんことが感じられます、神に心を任せるということ、ところがなかなかその神に心を任せるということがです、出けておるようにあって出けていないのです、ね、まあ、神様任せといい親先生任せといい、それが確かに任せられとるようにあるんですけれどね、その任せるそのことが、その自分の、お~、利害関係に響いてきたり、それが少し問題が大きかったりするとね、自分のそこに思いとか我情が出てくるわけです、そしてお願いはしておるお任せはしておるけれども、不安が出けてくるんです、ね、だから今日はここの、「神に心を任せ」というところをね、その任せられるというところにおかげが受けられる、「なるほど神様の恵まれるもんだなぁ」と「神様のおかげを頂かなければ出来ることではないんだなぁ」と、ね、その任せるということ、任せられるということがです、なるほどしっかり信心の帯をせなければ真の帯をせなければ任せられないもんだなということが分かってまいります。
ね、任せておるようであっても不安がある、お願いはしてあるけれども心配になる、そこんところをよく言われるんですけれども、なかなか難しい、あなた方はお願いをして、心配のたきをみんなお届けいた、それじゃないここでは、言うなら神様へ持って来といてから、神様の前にズラーっと自分の心配を並び立てるようなもんじゃ、ね、だからそれを全部ここに置いて帰りゃぁいいんだけれどね、また帰る時にはその、ズラッと並べとったつものをお供えせずに、また持って帰るから、やっぱ家へ帰れば心配である不安である、ああ家をっ、「ここに置いて行かにゃいかん、心配は置いて行かにゃいかん」と言われるけれど、なかなか難しいですねそれは、ここに置いて行くということは難しい、そう、まあ言われるけれどそれは難しい、やはり心配のありだけをお届けをするけれど、うんならここへ任せきってここに置いて行きゃいい、けれどもまああそこにきが一つのお取り次ぎの働きとでも申しましょうかね、「お取り次ぎをさして頂きましたら心がすっきりしました」「もうどげんなったっちゃ良かと思います」というように、まあ皆が申します、ね、そこんところはやはりおかげを受けますけれど、うんなら、と言うて、やはり、家に帰るとまた少し不安になってくる、「お願いはしてきたけれど、先生に不満をお任せしとけば大丈夫と思うけれど、今までのおかげの事から思うても、あの事もあんなしておかげを受けたのであるから」とこう思うのだけれど不安になる、それがならその大きな利害関係であるとか、またはそれが問題が少し大きい、まあ言うなら命に関わるというような、家の負賃に関わるといったような大きな事になってくると、なかなか任せられない、任せておるけれども、そこに不安が伴なう、そこでその不安を補うために、まあ一生懸命のお互い修行をするわけです、ね、「心配になる心で信心せよ」ともだからおっしゃるのです、一生懸命打ち込んで、その不安がなくなる、不安がなくなるということがいわゆる、なるほど神様の恵まれるものだというようなおかげを受けられる事なのですから、ね、そこで私はその修行を一生懸命するということですけれどね、ええ、一生懸命お縋りをするということも、お~、これが自分の限界と思われるような修行をして、神様にお縋りをすることによって、確かにですね心に一つの安定感と言うかね、度胸が座ると言うか、そのままよという心が出けてくることだけは事実ですね、けれえどもね、これではなるほどそれでおかげを受けてもね、次のおかげに繋がっていかんです、そのおかげだけでは、ね、そういうような時に、ね、そういう時にです、その不安の元を断たしてもらうということによってです、その事がおかげになるだけではなくて次ぎのおかげに繋がる、わけなんだ、今日はここんところをね、「神に心を任せられ」とこうおっしゃるけれど、ね、任せられないところにです、任せておるけれど不安であるというところに心配であるというところにです、その不安の元を断て、心配の元を断てというのです。
これはね、ん、私はここんところをどういう風に、本当に心が任せられるということは、どういうようなことであろうかとこう思ったんですよ、そしたらあの御理解に、い~、「お供え物とおかげは付き物ではない」という御理解がありますよね、御理解33節ね、先日頂きました、「お供え物とおかげは付き物ではない」と、ここんところになってくるとですね、確かにお供え物とおかげは付き物じゃないですね、これはそのおかげじゃなくて今日私が言うその後へ繋がっていくおかげとの付き物じゃないです、それはね、私はこの頃申しました、ガバッとそんなら思い切ってお供えでもしておかげ頂く事実はあるんです、ね、またそれを看板のようにしとる宗教すらがあるくらいですから、けどもその事だけが成就しただけではいけないって、その事だけがおかげ頂いただけじゃいけないって、ね、今日私は言うおかげはやはりこれには付き物じゃないということなんだ、ね、今日のここんところのね、「付き物ではない」というところここんところだけを頂くんですよ、付き物という、付き物、ね、例えばきつね付きなんかの場合ならつきっ、「あれは付き物のしょっとるのじゃないじゃろか」と言うでしょうが、それなんだ、ね、本来は自分の、本来は自分の、人間の心の中にはそういうようなものはないはずなんだけれどもです、何時の間にかそれが付き物になっておる、付いてる、悪い根性が付いてる、ね、汚い根性が付いてる、もうそれこそ人間を、神の氏子と言い、ね、神の分霊とも言い、分け霊とさえ言われておるその魂にですね、人間の魂にですね、何時の間にかその付き物がついている、ね、これはしかしどこまでも付き物なんです、ね、まあそんな事が実際あるかないかは知らんけれどもあのきつね付きなんかって言うのがです、なんかお払いならお払いをしてから、そのスカッと付き物が落ちると、きつねが落ちたと、ね、もうそれこそ付き物が落ちたようにスッキリする、それをあの四神様は、あ~あの桂ミツ先生に、言うておられますよね、「セリの根を水で洗うたようにスッキリと」と言うておられます、あのセリの根というものは水で洗いますともう、偉いスッキリするもんですよね、セリってあのあるでしょ、あの、「セリの根を水で洗うたようにスッキリする」、ね、私共の心の中からね、このっ、この付き物をね、一つどうかして落とさにゃいかん、ね、きつね付きが例えばなんかお払いかなんかで落ちるとするならばです、ね、それこそもう今までもう、きつね付きっちいうのは飛んだり跳ねたりするんですね、目をこう逆立てて・・。
久留米の石橋先生は若い時に柔術をやられたらしいですね、ある時にそのきつね付きをそのある人が連れて来た、もうそれこそもうやんがて気色悪か男じゃろかっちいうごと(?)の男じゃった、それがあなたもうぴょんぴょん御広前を飛び回ってから、その、お~やるそうですたい、してとうとうたばりかねてから、親先生が御結界から下りられてですね、それこそまだお若い時ですから、そのきつね付きをもう取っては投げ取っては投げされたそうですよ、終いにはくたびれてですね、もうそれこそきつね付きがスキッとして帰ったという話しがあります、そのきつね付きというのがね、それこそ今までどうにも出来なかったものがですね、もう不思議なくらいにそれがスキッと取れる、これが取れる、取れたらどんなにか楽になるだろう、それこそセリの根を水で洗うたように、心がスッキリとしたらどんなに有り難いことだろうかと、ね、心がね任せられないのはね、この付き物があるからです、まあ悪い表現ですけれども、あ~悪い事をいたしますよね、ね、悪事を働いておるわけです、ようお芝居なんかであります、それをその誰彼が見ておるわけです、誰かが見たわけです、だからこのこちらの悪事を見られたからにはお前はもう生かしてはおけないと言うて、それを殺すでしょうが、ね、殺さなければ安心がいかんもん、自分の悪事を見られとるんじゃから、ね、もしそのわであったら「あれがひょっとして訴えだんせんじゃろか言いだんせんじゃろか」と思うから不安になるのである、私共の心の中にはそれと同じなのだ、私共の心の中に「はぁこれがあったんじゃおかげは頂けまい、これがあるけんおかげが受けられん」というようなものが、かすかに顔を出してくるですいよいよ任せようとする時に、それがおかげの邪魔になるんです、ね、任せきったらおかげになる、しかもなるほど「わが力で産むと思うな」ともおっしゃる「みな神の、親神の恵むところ」とおっしゃるが、なるほど自分の力じゃない、神様のおかげで頂くもんだなぁというおかげが受けられる、このおかげはです、そん時ぎりのおかげではなくて、ね、永久に頂けれるおかげなのだ、ですから本当に心が任せられるためにです、ね、その任せようとする時に、邪魔になる心、ね、その心をとっちめれるだけではなくて、それを切って捨てるように、自分の心から取り除かせて頂くということ、、そうして思うことは、なるほど自分の本心の底からこれはあったものではなかった、これはこれを切って捨てれば自分、もう自分の命がなくなるように思うけれども、命とは別物であった、魂とは別物であった、確かに付き物であったなということが分かる、ね、だからその付き物を落とすためには、ただただもう要因なことではない、私はそこんところを修行さしてもらわにゃいけんと思う、そこんところを私はいよいよのおかげを、ね、「出産の時」とこう仰せられるが、本当のおかげが産みなされてくることのためにです、ね、本気で自分のその心の中にある、ね、心の中にあるのじゃない、心に付いておる物なんだ、これは付き物なんだ、どこまでも付き物なんだ、これはもう自分の性分じゃろう、家のめぐりじゃろうと、言うけれども、それはやっぱめぐりは付いてるのじゃ、性分じゃない、その中にあるものじゃない、なるほど本来は神の子であり、なるほど神の分け霊であることをです分からしていっ意味合いにおいてでも、そこんところのおかげを頂かないけません。
う~ん、昨日か一昨日だったか、あ何ことかだったかしら、え~、波多野さんと、のぶっ、あの、ひさっ、熊毛さんだったでしょうかね、誰だったかな話したんですけれど、あぁ何事からだったか、ん~、この「私が見よるとじゃない、私が聞きよるとじゃい、私がしよるとじゃない、と私はいつもそげん思うですがね」って言うて話すんですよ、ここで、ね、ね、「私が見よるのじゃない、ははぁ神様が見ござるとばいなぁ、私が聞きよるとじゃない、神様が聞きござるとばいな、私がしよるのと思いよったばってん、何気なしする事でも、私がしたっちゃなかった神様がしござったちゃった」という、いわゆる神の分身であるところの、言わば私と言や私、私の中にあるいわゆる神様が見ござった聞きござった言いござったということになる、ね、私共の心のっ、この「わが心が神に向かう」とか「神になる」とかということはそんなことだと思うんです、もう本来は神なんだ、その神に例えば悪魔のようなものがね、言うならば付いてるわけなんだ、きつねんごたっとが付いてるわけなんだ、ね、それを、が付き物なんだ、その付き物を落とすと、なるほど自分が言いよるとじゃないな、神様が言いござるとじゃなぁ、というように実感できるようにです、おかげを受けられる、まあ私が神様という意味じゃないけれども、そこに精進さしてもらいしょっ、そこにです、ね、先日も申しましたように、自分という者がなくなっておる、自分という者をもう、お前はもう生きとってもせんない、こういう難儀苦労の中におらなきゃならん、大坪の家のめぐりのためにでもお前一人命を落としゃあ、大坪の家が助かる」と言われた時に本気で死ぬ気になったと、本気で死ぬ気になった時に、その時に私が空しゅうなった、さあ出よと次ぎに助けて下さる働きの受けた時にはもうすでに私に付いておった物が無くなっておったと、というようなお話しをね先日さして頂きましたようにです、ね、やはり私共が何かの、そこにどうでもというような時に、一心にお縋りをさしてもろうて、もう誰にも頼まん彼にも言わん、もう神様一心に縋る、不安になる心配になる丈を神様にお届けをする、ね、そして親先生任せになる神様任せになっておるけれども不安である、不安であるから修行をする、不思議に修行をしておる時だけは何とはなしにドン腹が座っておる、ね、もう右になっても左になっても良いぞというような度胸すらあるかと思いよるけれどもまた次ぎにこう頭を出してくるものがある、それがまた不安であり心配である、ね、まあぎりぎりそういうところに一つお互い直面した時にです、でなからなければ出来ない信心ですねですから、ね、本当に神様に心が任せられるということ、ね、それには本当に任せられるためにはです、ね、自分の不安とか心配が起きてくるその元を断たなければ任せられないということ、ね、例えて言うならば今申しますように自分の悪事を知っておった、自分の悪事を見ておるその人を、生かしておったんでは、自分がまくらたこうして休まれん、ためにはそれをやはり、ね、亡き者にしなければ自分が安心して休まれないように、自分の心の中からです、そういう不安の元と言うか、ね、心配の元を断たせてもらう、おかげをです頂いたら、ね、そこからです、それこそセリの根を水で洗うたように、付き物が落ちたように、本当にあの人はこの頃人相から変わってきなさったと、心が楽になる、心配になるところが心配にならん、疑わしかったのがもう疑わんですむ、ね、不安で不安でもう尚早しておったその心がです、ね、無くなる、安心のおかげとはね、そういうものを断ち切ったその向こうにね、安心のおかげっていうのはあるということですよ、それがんならとてもとても普通で出来ることじゃない、普通はね、お取り次ぎを頂いてお願いをして、ああお任せしとりゃおかげ頂けるというような、程度のところから段々信心を進めていって、いよいよぎりぎりという時には、やはりそこんとこを断たして頂くことを神様も求めてござるのであり、私共もそれを願いとしなければならん、ね、そこに始めて、「神に心任せて、心任せよかれよ」というおかげが受けられる、ね、いわゆるそこにいよいよ素晴らしいものが完全に産みなされてくるわけなんだ、ね、ですからそれまでに産みなされておったものは、なんか変形的なもの、ね、ここで言う「お供え物とおかげは付き物ではない」とおっしゃるけれどね、ね、一生懸命参った、一生懸命修行した、ああ、一生懸命お供えした、からおかげを受けたというおかげはですね、それは本当なものではない、ね、頂いたおかげがそのままずーっと続けられるおかげ、それはやはり自分の心になる不安の元、心配の元をそれを、付き物が、を落とすように、ね、落として行くところからです、ね、本当の意味での「信心しよりなさるけん違う」といったような私は、自分に変わられることが出来る、そこからずっと、例えば本当の意味でのね、本当の意味での、にこやかさとか、明るさというものが産まれてこないように思う、ね、どうぞそのためにはまず自分の心の中に、不安の元、ね、任せられない元、そういう元をまず発見しなければならない、それでその元を、もう本気で一つとっちめたい、ね、それこそ石橋先生じゃないけれども、それをとっちめては投げとっちめては投げして行く内にです、言わばそのめぐりとおもっ、めっ、付いておっためぐりとでも申しましょうかね、付いておったそのきつね付きがです、段々弱って行ってです、ね、とうとう石橋先生の徳と力に、え~、その、付き物が落ちるようなおかげになってくる、ね、ですからここには本当に力を受けなければならん、ね、本気でそのちっ、その精進しなければならない、そこんところをですね、私共が、え~まあぁ、何て言うですかね、いい加減にすると言うか、それを、まあ(なおざりに?)したんではね、本当の精進にならん、本当のおかげにならない、ね、これはまあ本当にまああの、大変あの難しいことなんです、これは私ももう体験があります、もう夜も日も眠られない、考え出したらもう三日間ぐらい寝られない、寝られないと胸が痛うなってくる、あのね、胸が痛うなってくるとかね、腹が痛むとか、と言うでしょうね、例えば難儀な時苦しい時には、確かにあのこの胸を突き通すように痛くなってくるですよ二日三日目になってくると、そんな事を思い続けよると、「もうちょっと一時ばっかり神様、待たして、待って下さいと考える事を」というぐらいに、考えを止めるとすきっとするんです、その考えとる間はね、この胸がこう、この胸から後ろへ突き通っていたっ、痛んでくるですよ、胸の痛みに耐え兼ねてということは本当ですよ、うん、ところがそういうところをやっぱり通らせて頂くとですね、もうそれこそ付き物が落ちたようにおかげ頂くもんですよ、そん時に私頂いた御理解はですね、あの小さいチンクロウですね犬、犬がもうこう苦しんでるんですよね、ダニかが何かが付いているらしいんですよ、もうそれでその苦しさというものはもう、ダンゴロリンしてから苦しみよるとです、ね、ところが犬自身自分ではどうにも出来ないわけなんです取れんのです、ね、そんとこが私共がです、そのその、例えばこれが任せられない元であるこれが不安の元であるというものを見つけ出したらですね、胸が痛むまでにいっちょ思うてみなきゃいけんです、「これが、これがあっちゃぁ自分はおかげは受けられん」というもをですね、もういい加減にせずに一つ、もう本当にそこんところに自分の心を凝り固めてですね、思いつっ、思い、思い貫かなきゃいけません、ね、そうしてですね、それがもう言うなら三日三晩も苦しみぬいた、時にですね、何時誰が取って下さったか分からんごとそれこそ嘘のように付き物が落ちたようにおかげを受けておった、ね、犬とか猫とか自身ではどんなに自分にノミがおっても、虱がおってもですよ、ね、痒かっても自分でかくことも出来なからなければ、自分でどうすることも出来ないのだけれども、しかもダニのように悔い込んでおるとすれば、どげんダンゴロリンしたっちゃ、落ちないのです、ね、それを「ありゃこれはえらい苦しみよるが、これは何かおるとじゃなかじゃろか」と言うて、人間が抱き上げて「はぁこげなんダニが悔い込んでおったばいの」と言うてから、取って除いてくれるようなもんなんです、私共がそこに一生懸命のものを見せなければね、神様は取って下さらんですそれを、ね、それこそ犬にダニが悔い込んでおったものを人間が取ってくれるように、私共の苦しみの元である、難儀の元である、ね、安心しようとしても安心の出来ないその元というものをです、それは心の中にあるものじゃなかった、命じゃなかった、命の中にあるものじゃなかった、それに付いておるものであった、やっぱり、悔い込んだようにしておるけれども、それを取り除いて下さるのは神様なんだ、ね、だからそこんところの願いを立てて、本気でのそのことに取り組ませてもらうとです、神様が取り除いて下さる時にです、「はぁ~こんなにも楽な事じゃったじゃろか、こんなにも簡単な事じゃったじゃろか」というごたる今日おかげ頂いた暁は、ね、そこから私は本当の信心、いわゆる「真の、帯をせよ」とかね、え~、「わが力で、いわゆる我力で産むとは思うな」と、ね、「みな神の恵ところぞ」とおっしゃるように、神様のお恵みの中に、日々が、ね、恵まれ、しかも続けれるおかげ、ね、それを頂くために、ここで大いなる出産のおかげを頂かなければなりません、ね、大いなる、いわゆるおかげを頂くために、大いなる神様の働きをですね、この身一心に受け止められるおかげを頂くために、ね、そこから産まれてくる心を安心、いわゆる任せきられる心と私は思うのです、任せきられるそのことがそのまま安心なのです、任せきっておるようであっても任せきっとらん証拠に、不安があるじゃないですか、今日はその不安の元を断たせて頂くための修行、ね、おかげ頂かないけんと思うのです。 どうぞ。